それぞれの決意



イナーリヒ。

その聞き覚えのある名前に、あの日の記憶が鮮明に蘇る。

探し求めている温もりのようにさえ感じたそれは、
錯覚などではなく、父から娘へと注がれた、ささやかな愛情だったのだ。

「あの人が…?」

不器用な男が、ほんの一瞬だけ見せた笑顔が少女の心を掴んで離さなかった。


「それじゃ…二人の友だった男っていうのは、ジェントさんなのね?」

ルミナの問いに老婆は静かに頷いた。

「…驚かないんですね」

イリゼのことを全く知らなかった二人が、
イナーリヒとジェントのことを知っていることに対して、老婆は驚く様子を見せなかった。

「あなたは一体…」

どこまで見通しているのですか?

その言葉を続けることに躊躇いを覚えた。

そんなルミナの言いたいことを察するように老婆は口を開いた。

「それは…本人から聞いたほうがいいだろうね。
彼らも、自分の口から胸の内を伝えたいと思っているはず」



「そうだろう? ジェント…イナーリヒ」



老婆が対面している少女達よりも更に向こう、
わずかに光の差し込む入り口のほうを覗き見るように、そう言った。

「相変わらず鋭いな、ばーさん」

聞き覚えのある声のほうを振り返ると、
そこには、ジェントとイナーリヒの姿があった。


「久し振りだな、ばーさん。 それと、お二人さんも」


半年ぶりの対面。

あの日と変わらない調子のジェントと、
あの日以上に気難しそうな顔をしたイナーリヒ。

互いに、どう切り出せばいいのか分からず沈黙が訪れたが、
その沈黙は初対面ゆえに無視される形になったティーエによって破られた。

「ん〜? あんた…」

なにやら物珍しそうにジェントを見上げる小さな少女。

「不思議な音…」

じっとジェントを見つめる少女の目には、なにが映っているのだろうか。

「ばーさん、この子は?」

老婆と親しい間柄であるはずのジェントも、この少女のことは知らないようだった。

「あぁ、この子は…10年ほど前に拾った子でね」

「拾った?」

予期していなかった、また別の衝撃的な事実に場は凍りついた。

もしや老婆が、つい口を滑らせてしまったのでは。
視線はティーエに集中した。

「ん?」

だが、当のティーエは、あっけらかんとしていたのだった。

「あ、へーきへーき!」

捨てられていたという事実を、まるで何事もなかったかのように受け入れ、
小さな少女は元気よく手を振ってみせた。

「どうして?」

両親を捜し求めていたアールティヒは、
どうしてそんなにも前向きでいられるのかと不思議に思い、そう訊いた。

その答えは、あまりにも単純明快なものだった。

「だって、あたしばーちゃん大好きだもん!」

こんなにも小さな少女の答えに “ 聖女 ” と旅を続けてきた二人の心は強く揺さぶられた。



どんなに辛いことがあったとしても、
それを乗り越えた先に光があるのなら―



懐かしい声と言葉が聞こえた気がした。



「大事なお話があるんだよね?」

ティーエという小さな少女の存在は、
この場において、とてつもなく大きなものであった。

「長くなりそうだし、お茶を淹れてあげるね!」

それぞれの心に多大な影響を与えた少女は、
そんなことを知る由もなく、部屋の片隅で楽しそうにお茶の準備を始めるのだった。

「…強い子なんですね」

ルミナの率直な言葉に老婆も頷いた。

「あぁ…本人に、その自覚はないだろうけどね」

全員の視線の先では、
手を触れずにティーポットを傾け、カップにお茶を注ぐ魔女っ子の無邪気な姿があった。

「あの子には随分と救われたよ」

その言葉は、聖女の結末に心を痛めていた老婆の偽らざる心情だった。

「…苦労をかけたな」

これまで沈黙を貫いていたイナーリヒが、そう老婆を労わった。

「いや…あんた達が受けた仕打ちに比べれば…」

老婆は言葉に詰まった。

「おまたせ〜」

またしても訪れるかと思われた沈黙は、
お茶を淹れたティーエの帰還によって振り払われた。
全員にカップを渡し終えると真っ先に口を付け、あちちっと周囲の人間の心を和ませる。



「アールティヒ、母さんのことだが…」

ようやく核心を切り出したイナーリヒの言葉に、
アールティヒは自然とカップを両手で強く包み込んだ。

「心配はいらない」

心のどこかで抱いていた悪い予感は、その言葉で消え去った。
アールティヒも安心したように、ほっと大きな息をつく。

「それじゃ、いまはどこにいるの?」

「それは…」

なによりも伝えなければならなかったこと。
イナーリヒは、しっかりとアールティヒの目を見つめ、静かに言葉を紡いだ。

「母さんは…イリゼは…あの草原にいる」

「あそこに…?」

言葉の意味を理解できず、どういうことなのかを訊き返そうとした瞬間、
いつかどこかで感じた優しい温もりを思い出した。

はっと、なにかに気付いた様子のアールティヒを見て、イナーリヒは言葉を続けた。

「きっと逢ったことがあるはずだ。 目には見えなかっただろうが…」


草原の村を飛び出した、あの日。

木陰で眠ってしまったときに感じた優しい温もり。

広い世界へと飛び出していく娘の身を案じながら、
その小さな体が風で冷えぬよう、そっと優しく包み込む母の愛が、そこにはあった。


「でも、どうして…」

どうして、その姿を見ることが叶わないのか。

その答えこそが聖女の結末と言われるものだった。


「聖女として使命を果たせなかったイリゼは、
世界ではなく、世界の悲しみから俺たち守ることを選んだんだ」

「どういうこと?」

「俺たち草原の民は、その大地で自給自足の生活を営んでいる民族だ。
なにか特別な理由でもない限り、外の世界との交流を持つ必要はないんだ」

イナーリヒの言うことは間違ってはいなかった。
外の世界への憧れこそあれど、何不自由なく暮らしてきたのも事実だった。

「そんな俺たちを世界から守ろうと考えたイリゼは…
その想いを…具現化してしまったんだ」

その姿は大きく、まるで大草原を統べているかのような神々しいものに変化したという。
希望に満ち溢れたような虹色に輝く羽根は、むしろイナーリヒとジェントにとっては悲しみの色となった。

それ以来、余程の強い意志の持ち主でもないと、大草原を抜けることが出来なくなったという。



“ 草原の村は神様に護られているという噂があっての。 外の人間が辿り着けることは滅多にないらしいぞい ”



港町で装飾品売りをしていた老人の言葉が思い出される。



アールティヒは、外の世界への憧れと、なによりも両親に会いたいという想いの強さで、
他でもない母イリゼの庇護から飛び出していったのだった。

それを見守っていたイリゼは、どのような気持ちだったのだろう。



「意思の疎通はできる。 ちゃんと元気だ。 あいつの意思で姿を現すこともできる。
どんな姿になったって、あいつはあいつのままだ。 だが…」

言葉に詰まるイナーリヒの肩を軽く叩き、お調子者が真剣な表情で言った。

「俺たちは、そんな結末を望んじゃいない」

ジェントに背中を押され、再び顔を上げたイナーリヒの瞳には強い決意が宿っていた。

「そう…だから待っていた。 アールティヒ、お前が真実を知るときを。
一緒に母さんを…イリゼを迎えに行ける日を」


あまりの真実に言葉を失ってはいるものの、
その瞳には父親と思じ想いが強く宿りつつあった。


「だけど、もしも真実に辿り着けなかったときは…
この子が両親のことを知らないままでいたときは、どうするつもりだったの?」

当然の疑問をルミナは投げかける。

「その時は、それもいいかもしれないと思っていた。
聖女とは無関係のまま…元気に世界を駆け巡っていてくれたら、そのほうがイリゼは喜ぶに違いないからな」

「そう…だけど名前を偽らなかったのは、そんな風に諦められないからじゃないの?」

気難しい男が、痛いところを突かれたという苦笑いをしてみせた。
どんなに強がってみせても、本心ではアールティヒと共に歩む道を望んでいたのだから。

「素直になればいいのに」

イナーリヒは頭をかいてみせた。
そして、その言葉に背中を押されるように、ゆっくりとアールティヒに歩み寄り優しく包み込んだ。

「すまなかった、長いこと…」

言葉は続かなかったが、その想いは痛いくらいに伝わっていた。

「お父さん…おとうさん…」

これまで我慢していた想いが一気に爆発し、わんわんと大きな声で泣いた。



ようやく泣き止んだ少女は、その泣きはらした目を拭いながら告げる。

「一緒に行こう。 お母さんを迎えに」





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